開発経緯
ランチアは、当時フルタイム4WDの舗装路での優位性がまだ確立されていなかったことと、開発期間の短縮、
ストラトス
で培った技術の応用、
整備性の良さなどから、MRレイアウトを採用した。
当時、ランチアには4WDを開発するだけの余力がなく、将来必要になる4WDの技術取得にも時間がかかることから、
「グループB初年(1983年)は後輪駆動で参戦し、グラベルでは手堅くポイントを挙げつつ
ターマックイベントでは
必ず勝利し、
上位を独占する」という戦略
で臨んだとされる。ラリー037の開発ではストラトスの長所を生かしつつ、
同車の欠点を可能な限りつぶすこと(ホイールベース
の延長、エンジン出力特性の最適化等)に注力された。
ストラダーレ
型式名は
ZLA151ARO。ベースとなったベータモンテカルロ(型式ZLA137ASO)が、元々はフィアットによる
低価格帯ミッドシップスポーツクーペのひとつ(X1/20)として計画されていたため、本車種の型式もランチアの800番台ではなく
フィアットの100番台が与えられている。
シャシー設計はジャンパオロ・ダラーラが担当し、生産もダラーラで行われた。
キャビン部分の
モノコックをベータ・モンテカルロから流用し、その前後にクロムモリブデン鋼の鋼管(チューブラー)を多用した
エンジンは、フェラーリのF1エンジン設計主任だったアウレリオ・ランプレディが設計し、1960年代のデビュー以来
フィアットの主流となっていたDOHCユニットであり、フィアット・124・アバルトラリーとフィアット・131
・アバルトラリーを経て
熟成が進められてきた「ランプレディ・ユニット」をベースにアバルトが開発した。
ベータ・モンテカルロは同ユニットを横置きに搭載していたが、ランチア・ラリーでは運動性向上のために縦置きに変更され、
出力向上のために131で経験のあるアバルトが開発したルーツ式
スーパーチャージャー(ヴォルメトリコ)が組み合わせられている。
ランチアにおける過給エンジンは、グループ5レーシングカーの
ストラトス・ターボやベータ・モンテカルロ・ターボで経験があったものの、
高過給ターボエンジンの急激に立ち上がるトルク特性はラリーに向いていないとの判断から、ターボではなくスーパーチャージャーが選択された。
ボディデザインはベータ・モンテカルロ同様ピニンファリーナが担当し、ラリー目的に開発された車としては異例の流麗なデザインを持っている。
ストラダーレはコンペティツィオーネに改造された分を含め、全部で200台が製造されたものとされる。
日本では当時のインポーターであるガレーヂ伊太利屋によってごく少数が輸入された。当時の車両本体価格は980万円。
コンペティツィオーネ
グループBで競われるWRCに出場するために、ストラダーレをレース専用車に改造したものが「コンペティツィオーネ」
と呼ばれる。
(エボリューションモデルとも呼ばれる)
WRCでのデビューは1982年の第5戦ツールドコルスである。フルタイム4WDとターボで武装したアウディ・クワトロが台頭してきていた中、
チェーザレ・フィオリオ率いるランチアは冬のラリーモンテカルロのコースに塩を撒いたり、サンレモではスタート遅延を行うなど、
レギュレーションの裏をかいた様々な手を駆使するとともに、ドライバーであるワルター・ロールの活躍も手伝い、
モンテカルロとコルシカ、ギリシア、サンレモなどで勝利し、残り2戦を残して1983年にマニファクチャラーズタイトルを
獲得した。
次期マシンとなるデルタS4の開発が遅れたこともあって、ラリー037は1985年まで現役参戦したが、
グループBはすでに限界を超えた危険な領域に踏み込みつつあり、ランチアも同年のツール・ド・コルスで
アッティリオ・ベッテガが
死亡する事故を起こしてしまった。
デルタS4開発遅延に伴う延命のため、シャシとボディの一部にカーボン・チランなどを多用して軽量化を図った
第2世代のエボリューションモデルが20台作られた。
エンジンは排気量を2,111ccまで拡大し、大容量のスーパーチャージャーを使用して出力の向上を狙った。
1985年のサンレモ・ラリーを最後にワークスマシンとしての座をデルタS4に譲り、その後はプライベーターの手によって主に
ヨーロッパのラリーシーンを中心に活躍した。
日本では1994年の全日本GT選手権(JGTC)第3戦富士スピードウェイに、レギュレーションに適合させたマシンが
スポット参戦した。この事はほとんど知られていない。