中島理は、愛知県岡崎市出身の元レーシングドライバーで、有限会社中嶋企画代表取締役社長。身長165cm、体重60kg。血液型B型。
日本人初のF1フルタイムドライバーで、株式会社日本レースプロモーション(JRP)の取締役会長も歴任。
F1テストドライバー
F1マシンのドライブは、1982年に全日本F2の一戦である「JPSトロフィー」で優勝した副賞として、当時JPSがメインスポンサーだった
ロータス92のテストを行ったのが最初の機会だった。
その後、ホンダとの良好な関係により1984年からはホンダF1のテストドライバーを務めるようになり、
当時ホンダがターボエンジンを供給していたウィリアムズ・FW10をテストドライブするようになった。
のちのF1デビュー後にはこの際の経験が生かされることとなった。
1986年、F1で勝利を挙げ始めたホンダのサポートを受け、全日本F2選手権へ参戦しつつ、国際F3000選手権にも参戦した。
中嶋は生活拠点をロンドン郊外へと移しベースを築きながら国際F3000を転戦し、全日本F2のためその都度帰国するスタイルの1年となった。
このため、長らく参戦してきた富士GCへの参戦は休止した。これは、F1へのステップアップのために国際的な実績を積むためと、
当時のスーパーライセンス
発給基準は「実質的に国際F3000選手権に1シーズン出場しているか、イギリス、フランス、ドイツ、
イタリア、日本、南アフリカのF3選手権の現チャンピオンか、前年のF1世界選手権に5回以上スタートしている」となっていた為であった
。
ホンダからのサポートは受けていたが、欧州に立つ時点で翌年F1に行ける確約を得ていたわけではなく
、中嶋は
「国内F2に参戦していたのはこの国際F3000への遠征資金を捻出するためだし、チャンスは自分で作らないとダメなんだ。
F1は所詮ヨーロッパの物だから、すべてを捨てて海外へ出る覚悟みたいなものが無いと(F1が現実的な話にならない)。」
という考え方により欧州参戦に至っていたが
、朗報は中嶋が考えているよりも早い時期に訪れた。
1986年7月初旬のある日、中嶋は当時ホンダF1総監督だった桜井
に呼び出され、その場で
「翌シーズン、ホンダがロータスにエンジンを供給することが決まり、それに伴いロータスが中嶋と契約したいと言っている」
と聞かされる。それ以前にもアロウズ
やトールマン
からF1参戦の誘いはあったが、いずれも数百万ドル単位の持ち込みスポンサーが
必要であったのに対し、ロータスは「持ち込みスポンサー不要で逆に契約金を払ってくれる」という好条件だったため、
中嶋は契約を即決した。
1987年
1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、日本人初のF1レギュラードライバーとなる。
この年の開幕戦ブラジルGPでロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。
この年は慣れない初コースがほとんどの上、99Tに搭載されていた新技術であったが、構造が複雑かつ信頼性が低い
アクティブサスペンションの熟成不足に苦しめられ予選で6-7列目の中団に埋もれる場面が多く見られたほか、
細かなマシントラブルに苦しめられたが、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレーテッド・ドライバー
(Graded Driver / 年間で複数回入賞したドライバーに与えられる名誉)の仲間入りを果たした。
なおこの年のチームメイトは、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。
F1参戦を機にロータスのファクトリーがイギリス(ノーフォーク)にあることから、中嶋がベースを築いていたロンドン郊外に
家族も呼び寄せて移住した。
F1では若いカーナンバーがチームのエース・ドライバーに与えられることが多いが、新人の中嶋がカーナンバー11、
すでにF1で勝利実績のあるセナがカーナンバー12であった(これはセナが1985年のロータス加入時にエリオ・デ・アンジェリスの
セカンドドライバーとして12番をつけ初優勝を記録していたため気に入っていた。マクラーレンに移籍した1988年も12であった)。
4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車による1-4位独占の一角を占めたほか、地元の日本GPでも、
ベネトンの
ブーツェンやファビ、ブラバムのパトレーゼらと終始争い「中嶋返し」や「大外刈り
」と呼ばれる鈴鹿サーキット
1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。
- マシン:ロータス 99T・ホンダ
- チームメイト:アイルトン・セナ
- 獲得ポイント:7
- 最高位:4位(イギリスGP)