【凡例より】
一、本巻は、平凡社刊『茶碗』全五冊(中国・安南、朝鮮一、朝鮮二、日本一、日本二)のうち、「日本二」とする。収録した茶碗は五十八点、和物茶碗のうち長次郎、道入、光悦、唐?津、萩、高取、薩摩、信楽、朝日、仁清?、乾山にあたる。
一、原色図版は、原則として側面と高台を、見開きで掲載したが、見込みに特にみるべきものある場合には、側面の代?わりに見込みを使用した。
一、原色図版は、原寸大を原則としたが、高台は、視覚的安定をうるためにいくぶん小さめにした。
図版配列の順序は、古来知られたものを先にしたが、品等による位づけは行なっていない。
一、付属品および書き付けのうち、とくに重要と認められるものは、参考図版として解説欄外に掲載した。
一、かなづかいは、引用文を除いて、新かなづかいとし、用字は、固有名詞、専門用語のほかは当用漢字、当用略字によった。
一、所蔵者名は、博物館、美術館のみを記載し、個人の所蔵者名はこれを省いた。
【目次より】
楽 長次郎 黒 銘 大黒 重要文化財 楽長次郎 楽焼
長次郎 黒 銘 東陽坊 重要文化財
長次郎 黒 銘 桃花坊
長次郎 黒 銘 あやめ 熱海美術館
長次郎 黒 銘 まこも 藤田美術館
長次郎 黒 銘 北野 大名物
長次郎 黒 銘 ムキ栗
長次郎 黒 銘 俊寛
長次郎 黒 銘 一文字
長次郎 赤 銘 早舟 畠山記念館
長次郎 赤 銘 無一物 中興名物 重要文化財
長次郎 赤 銘 太郎坊
長次郎 赤 銘 二郎坊
長次郎 赤 銘 道成寺
楽 道入 黒 銘 升 楽道入 のんこう ノンコウ ノンカウ
道入 黒 銘 千鳥 藤田美術館
道入 黒 銘 あら磯
道入 赤 銘 是色
道入 赤 銘 虹
道入 赤 銘 巴
本阿弥光悦 白 銘 不二山 国宝
光悦 黒 銘 時雨
光悦 黒 銘 雨雲 重要文化財
光悦 黒 銘 七里 五島美術館
光悦 黒
光悦 赤 銘 毘沙門堂
光悦 赤 銘 雪峰 畠山記念館 重要文化財
光悦 赤 銘 乙御前
光悦 赤 銘 加賀光悦
光悦 飴 銘 紙屋
唐?津 銘 三宝 一名 是閑唐?津 重要文化財 唐?津焼
唐?津 銘 中尾
唐?津 銘 真蔵院
唐?津 銘 深山路
唐?津 銘 糸屋
唐?津 銘 ねのこ餅
瀬戸唐?津 藤田美術館
瀬戸唐?津
絵唐?津
絵唐?津 出光美術館
彫唐?津
萩 銘 白雨 萩焼
萩 銘 みよしの
萩 銘 大との
高取 高取焼
薩摩 銘 野々宮 薩摩焼
信楽 銘 水の子 根津美術館 信楽焼
信楽 銘 花橘
朝日 胴紐 朝日焼
朝日 銘 老浪
野々村仁清? 扇流し
仁清? うろこ波
仁清? 波に三日月 東京国立博物館
仁清? 片男波
仁清? 金銀菱 熱海美術館
仁清? 金銀花菱
尾形乾山 滝山水
乾山 やり梅
解説 小山冨士夫 田中作太郎 林屋晴三 藤岡了一 満岡忠成
概説 田中作太郎
全作品の寸法比較表(名称・高さ・口径・深さ・高台外径・高台高さ・重さ)
【作品解説より 一部紹介】
長次郎 黒 銘 大黒 重要文化財
高さ8.5cm
口径10.7cm
高台外径4.8cm
同高さ0.8cm
大黒は東陽坊(黒)、木守(赤)、早舟(赤)とともに、利休銘七種茶碗と称されているが、七種の写しが一入の手によって、作られていることから推測すると、一入時代?、すなわち江岑、随流の時代?には、これらの茶碗が、数多くの長次郎茶碗の中でも、利休好みの代?表作として、典型的な作ぶりのものとされていたことを物語っている。
なかでも、大黒がいかに著名であったかは、万治三年に上梓された『玩貨名物記』に、すでに「一 大くろ 黒 茶碗 利休所持 所持不知」と記載されていることによってもうなずかれる。ちなみに同書所載の長次郎焼は、他に「早舟」一碗のみである。さらに同記には「所持不知」とあるが、万治初年ごろには、後藤少斎か江岑のものであったと推測される。作ゆきは、七種茶碗とされていることによってもわかるように、典型的な利休好みの茶碗であり、現存の茶碗では、「無一物」と類似した形姿で、質朴温和、いささかも作為をあらわさず、しかもいいしれぬ量感を備えている。まさに利休晩年の「心味の無味」の茶境を、象徴するものといえるのではなかろうか。
総体の大きさに比して、手取りのやや重いのは、底が分厚いためで、その点、断面図を参考に推測されたい。
高台は口径に比して、やや小ぶりで、あまり高くなく、どちらかといえば、つつましく削り出されている。高台内の兜巾は「無一物」と似て、くっきりと、うず状に現わされている。手づくねとしては、製作技術の上からは必要としない兜巾だけに、これはあくまで高台の様を考慮しての作為であったと考えられる。しかもそれが、利休好みと推考されるものほど、くっきりと著しいのは、注目すべき特色である。
総体に黒楽釉がかかっているが、ことに外側の釉がかりは、長次郎茶碗として比較的なめらかで、独特の飴色をおびた黒釉がよく溶けている。ただし一部に高台ぎわから口辺にかけて、霞がかかったように、かなり強いかせが現われている。内側は長年の茶渋なども付着し、また使用中にもかせたのであろうが、見た目には、艶は全く失われ、マット調のかっ色の釉膚をしている。
見込みには、茶だまりのくぼみはなく、広く湾曲しているのみであるが、これも初期の作品の特色といえるのではないだろうか。
高台畳つきの一部の釉が欠失し、そこにいわゆる聚楽土が、あらわに現われている。また外側に、窯中より出引したときのはさみあとが、くっきりと、あざやかに残っている。外側、高台脇から側面にかけて山きずがあり、口辺には数力所、漆繕いがみられる。表を黒かき合わせ塗りに、裏を黒真塗りにした内箱の蓋裏に、「大クロ 利休所持 少庵伝 宗旦 後藤少斎ヨリ宗左へ来ル(花押)」と千宗旦の子、江岑宗左の筆で朱漆書きされている。「大クロ」は千利休の銘で、その後、利休から少庵、宗旦と伝わり、一時京都の数寄者後藤少斎の有となったが、江岑の代?にまた不審庵の什物となり、しばらく表千家に伝わったのち、三井浄貞を経て、大阪の鴻池家に入り、以来、鴻池善右衛門家の什物の中でも、特に珍重のものとして伝えられたものである。また桐の外箱蓋表の「利休大くろ茶碗」の墨書き付けは、随流斎の筆である。(林屋晴三)
長次郎 赤 銘 無一物 中興名物 重要文化財
寸法(略)
内箱蓋表に古宗室、すなわち千仙叟の筆で「無一物」と墨書き付けしてあるが、それが仙叟の銘であったか、あるいは以前からの銘を、仙叟が箱に書いたものかは判然としないが、一応、仙叟銘とするべきであろう。しかし、この茶碗に「無一物」とは、いみじくも名づけたもので、その落ち着きのある安定した姿は、まさに無一物という、禅語の境にふさわしいものといえよう。
作ゆきは、典型的な利休好みの茶碗で、おそらく制作年代?も天正十五年前?後、初期の宗易形長次郎茶碗ではなかったかと推測される。やや内にかかえた口作り、ふっくらと張った胴、さらに静かにすぼまってゆく腰から高台にかけての曲面、すべて全く無技巧そのものである。高台は口径に比してやや小さく、これまた温和に削り出されているが、高台内の兜巾は、大黒と同じく、くっきりと、うず状に小高く作られている。
茶碗の手取りが意外に重いのは、底の肉どりが、ことさらに分厚いためで、なにゆえに、これほど厚くしたものかは判然としない。「大黒」もかなり厚いが、この茶碗の場合は、いささか例外で、あるいは一度削り上げた後、さらに内底に、土を補充したのかと思わせるほどである。胎土は細かい砂まじりの、いわゆる聚楽土で、赤みは強い。総体に、透明?性の釉薬をかけて焼成しているが、釉がけが薄いのと、焼成火度が低かったためか、釉膚はほとんどかせて、土膚に薄く付着しているかのような状態になっている。ことに内部見込みは、全く剥落してしまって、赤い素地膚があらわである。ただし内側には比較的よく残り、また高台ぎわから高台の内外に釉だまりが生じ、その釉も白くかせている。
高台畳つきの、およそ半分は素地があらわになり、長次郎茶碗としては珍しく、くっきりと目あとが五。所に残っている。「次郎坊」が土味・釉膚とも、これに最も近い状態であるが、作ぶりはやや異なる。
江戸?時代?前期の伝来は不詳だが、のちに京都の数寄者清?水藤太郎の所持となり、さらに享和初年に、道具商竹屋忠兵衛の取り次ぎで、松平不昧公の蔵となったらしく、『雲州名物記』の中興名物の部に、
長二郎 赤 無一物 京 清?水藤太郎 享和 竹忠 五百両
としるされている・しかし『大崎様御道具代?御手控』には「無一物 切八(切屋八左衛門)三百六十四両 中興(中興名物)」とあり、あるいは御手控の記述のほうが、正しいのではないかと推察される。
『不昧公茶会記』によると、享和二年の冬、公はこの茶碗を茶会に用いたが、そのおもな取り合わせは、
一 掛物 定家 慶賀の文
一 茶入 藤重 面棗
一 茶碗 無一物 長次郎 赤 仙叟銘
という、いかにも余韻のある取り合わせであり、不昧公ならではの格調がうかがわれる。
道入 黒 銘 升
寸法 略
いつごろからか、長次郎七種にちなんで、ノンコウ七種と称して、若山、稲妻、鳳林、升、獅子、千鳥、鵺の七碗が選ばれ、ノンコウの代?表作とされているが、なかでも「升」は、筆頭の名碗として、やかましいものである。いうまでもなく茶碗の姿が、撫で角ではあるが、四方の升形になっているのに因ったものである。
本阿弥光悦から、「吉兵衛は楽の妙手なり」とたたえられただけあって、ノンコウの作ぶりは、いずれも軽妙であり、旺盛な作為に満ちているが、この「升」は、まさにノンコウの面目躍如とした茶碗である。ノンコウの黒楽の特色として、幕釉と飛白釉とがあげられているが、この茶碗は、そのいずれをも十分に見せたものであり、しかも茶碗の姿が四方ということから、「千鳥」よりも、一段声価が高いようである。
高台は尋常に削り出され、高台ぎわから腰にかけては、なだらかなまるみをもち、胴は少しふっくらとして、一部にややくびれたところがある。口作りもほとんど心持ち、内にかかえているにすぎない。いわば腰のあたりから、撫で角の四方になっていることを除けば、その形状は、けっして作為の強いものではなく、いたって素直に、尋常に作られた茶碗といえる。口作りは、口縁でかなり薄く、いわゆる蛤歯状をなし、見込みはまことに気分大きく、ゆったりと作られている。茶だまりをとらず、広く湾曲させる作ぶりは、ノンコウ独特のもので、類形を求めれば、光悦の見込みが最も近く、あるいは光悦の影響を受けたものかもしれない。ノンコウの茶碗が、楽茶碗で最も茶が点じやすいのも、この見込みの曲面のよさにあるといえよう。
高台と、高台まわりを土見せにするのは、常慶在印の茶碗の幾つかに見られるが、定着するのはやはりノンコウからで、これは高台内に押された「楽」字の印を、くっきりとさせるために、始められたものと考えられる。ことにこの茶碗の場合は、あくまで印つきを見せるために、土見せにしたことは、土見せの部分に、少しも装飾的な作為のうかがわれぬことからもうなずける。高台の五徳目五。所に、黒釉がくっきりと付着しているのも、ノンコウの土見せ茶碗の特色の一つといえる。
胴の一方に、山形に白釉を施したほかは、黒楽釉がかけられているが、腰まわりは薄く、口辺から胴にかけては厚く、あたかも垂れ幕のように、変化をもたせてかかっているが、これがノンコウ独特の釉技、幕釉である。釉膚は厚く、しかも非常によく溶けて、漆黒の訟が出ている・また裾の釉がかりの薄いところは、飴色をおびている。このように、釉がけに装飾的な作為をこらしたノンコウであったが、こうした作為は、利休好みの長次郎茶碗には、全く見られなかったもので、やはり江戸?初期という、時代?の気風がもたらしたものといえよう。
内箱は桐白木・蓋裏に、覚々斎原旻によって、「黒のんかう ます 茶碗 左(花押)」と書き付けされている・伝来は、大阪の町人くけ屋の所持で、その後、東京の赤星家の蔵となり、大正六年六月、赤星家第一回入札のとき、六万七千円という高額で、大阪の磯野良吉氏に落札し、巷間をにぎわせた茶碗である。
唐?津 銘 三宝 (一名 是閑唐?津) 重要文化財
寸法略
唐?津随一の名碗として知られた茶碗である。是閑という名称は、中尾是閑という医師があり、この人が所持していたからだともいわれ、またこの人の好みで作られたとも伝えられるが、よるべき資料がないので、たしかでない。素地は小砂まじりの、ざらっとした荒い土で、堅く焼き締まって、岩のような感じである。わずかに鉄分を含み、露胎の部分は、焦げて淡かっ色になっているが、茶渋でよごれ、暗かっ色になっている。半透明?性の、しっとりとした光沢の、鈍い釉薬が内外にかかり、外側腰以下は、露胎である。
形は縁がわずかに端反りぎみで、囗が広く、背の低い、また広い低い高台のっいた、一見、柿の蔕を思わせるような茶碗である。作りが厚く、どっしりとした重々しい感じの、唐?津としては珍しい姿の茶碗である。底裏は浅く、一気に削ってあるが、一方が厚く、一方が薄く、まん中に兜巾が立ち、平凡ながら趣のある、いい高台をしている。
内面見込みは、かいらぎ状に釉薬のちぢれがあり、三角状に土を見せ、そのまわりの釉薬は、厚く青みをおびている。小さい目あとが五つあり、周辺には雨漏りのようなしみが、雅趣を添えている。焼成はやや甘く、中性炎のため、枇杷色になったところもあるが、また還元?ぎみで、青みをおびたところもある。胴に石はぜが一つあり、口辺に樋が数本あるが、目だたない。形は柿の蔕ふうだが、井戸を思わせるような、どっしりとした重、しい茶碗で、唐?津では群を抜く名碗というべきであろう。
ちなみに今泉雄作翁は、『日本陶瓷史』に「是閑唐?津・朝鮮唐?津・瀬戸唐?津の三つは、唐?津の名こそ襲ふて居るが、全然、我が国のものでは無い。是閑唐?津とは、其の色合が、少し赤味がかってたものであるが、固より、我が唐?津焼では無い」という意見を述べているが、今日では是閑唐?津を、唐?津と見ない人はない。また是閑唐?津は、茶碗として作られたものではなく、もともとは雑器だという見方もあるが、私は形といい、釉薬のかけ方といい、茶碗として作られたものではないかと思っている。是閑唐?津も、桃山末・江戸?初期に作られたものだろうが、唐?津のどの窯で作られたということは、はっきりとしない。おそらく松浦系の唐?津だろうが、飯洞甕か藤の川内か、はっきりとしたことはわからない。
付属物は、
内箱 黒塗り 蓋表書き付け 金粉字形「是閑唐?津 茶碗 三宝」
中尾唐?津とともに、鴻池家に伝世したもので、唐?津の名碗として知られている。
(小山冨士夫)
唐?津 銘 真蔵院
寸法略
古唐?津の一種、奥高麗の手で、唐?津の茶碗では、古来、奥高麗をもって最も尊しとしている。この手は、おおかたの掘り出し唐?津と違って、一品製作に成る、純然たる茶器生まれのもので、器格からして、通途の唐?津とは格差がある。素地は細かな漉し土で、釉は薄くかかり、酸化で枇杷色になったものと、還元?で青みに焼き上がったものとあるが、前者のほうが釉膚も柔らかく、手取りも恰好で、ざんぐりとして、茶味がまさって喜ばれる。形には大小あるが、締まった小ぶりのほうが、古来、賞美されている。
真蔵院は、奥高麗としては小ぶりの小深い出来で、茶趣がことに深く、この手では、茶方に最も喜ばれる茶碗である。素地も赤みで、釉膚も総体枇杷色に上がり、釉掛かりに自然の濃淡現われ、あるいは釉なだれや、掛けはずしが諸所に見えて、すこぶる景趣に富んでいる。二、三、石はぜのほかに、釉膚に細かいほつれ無数に散らばって、佗びの風情十分である。裾の土見には、引き目の細筋よく現われ、脇にぬたの残ったのも、かえって茶趣を加えている。
高台は竹の節で、内には小さく兜巾が立っている。見込みは、ふところゆったりとして、景も多く、釉膚は、かいらぎ状を呈している。口辺には縦貫人、大小とも四すじである。
さすがに『雲州蔵帳』所載の松平不昧愛玩の品だけに、万般の見どころ具足の、奥高麗中の奥高麗ともいうべき、茶趣満点の名碗で、古唐?津の秀逸として推すにはばからない。
付属物は、
内箱 桐白木 蓋表書き付け「奥高麗」
同 蓋裏書き付け「真蔵院」
伝来。真蔵院伝来によってこの銘があり、のち松平不昧の有となって、長く愛玩秘蔵され、『雲州蔵帳』には上之部に、
真蔵院 古唐?津箱奥高らい 大川清?右衛門(細川三斎公ノ寺真蔵院) 安永 伏見や 十枚
と登録されている。
その後、根津青山翁が、松平家から譲り受けて愛蔵し、さらに九州のさる数寄者の蔵に帰したが、今また転じて、中京の某家に所蔵されている。
【概説より 一部紹介】
長次郎・道人・光悦・唐?津・萩・高取・薩摩・信楽・朝日・仁清?・乾山
長次郎
桃山時代?は、わが陶芸史の上でも、大きな変革を示した時期であった。瀬戸地方に、従来の伝統とは全く異なった、「志野」や「織部」などの窯芸が生まれ、九州に唐?津陶が、新しく興ったことなどがその例にあげられる。楽焼きもまた、当代?に始まった新興窯芸であるが、のちのわが窯芸全般に与えた影響が大きな点で、特筆されてよい。この楽焼きについて、従来は長次郎によって始められ、ついで常慶、道人と受け継がれて展開したと説かれていた。が、近年公表された楽家伝来の古文書や、新しく発見された陶芸品などから研究が進められた結果、これまでの通説には、いろいろな誤りがあることが
知らされた。
この楽焼きの家元?である楽家の古文書は、これまでの同家の系譜では、四代?に当たる宗入の自筆であって、元?禄元?年十二月十七日の奥書きを伴っているが、それによると、宗慶と呼ぶ人物が、長次郎と並んで大きくクローズアップされる。
覚
一 あめや女方 ひくに也
一 長次郎 但戊辰年辿二百年計成
一 長次郎かためしうと
(以下略)