1/43 入手困難 ジル・ヴィルヌーヴ特別モデル 500台限定 BRUMM フェラーリ FERRARI 126 TURBO 1981年 モナコGP G.VILLENEUVE
1950年1月18日、カナダのケベック州モントリオールに程近いリシュリューで生まれ。
フランス系カナダ人であり、フランス語を母国語とした。
青年時代まではスノーモービル競技の選手で、弟ジャック・ヴィルヌーヴSr.とともにチャンピオンを獲得した。
1973年から自動車レースに転向し、フォーミュラ・フォードのチャンピオンになる。1974年からフォーミュラ・アトランティックに参戦、
1976年 - 1977年と2年連続チャンピオンを獲得。当時のライバルはケケ・ロズベルグだった。
1976年9月5日に市街地で開催されたフォーミュラ・アトランティックレースで、スポット参戦したF1ドライバー
ジェームス・ハントを下して優勝した。その後、ハントの推薦により、ハントの所属するマクラーレンとスポット参戦契約を交わした。
F1の世界へ 1977年
7月17日の第10戦イギリスGPにて、マクラーレンのサードドライバーとしてF1デビュー。
水温計の故障で一時ピットインするも、11位完走した。このデビューレースでの走りがエンツォ・フェラーリの目にとまり、
フェラーリと翌1978年からのレギュラードライバー契約を結ぶ。その後、チームとの確執から離脱したニキ・ラウダの代役として、
第16戦カナダGPから出場した。
最終戦日本GP(富士)で、序盤にティレルのロニーピーターソンに追突し、ヴィルヌーブのフェラーリは宙高く舞い上がり、
立ち入り禁止区域にいた観客らの中に落下した。マシンは大破したにもかかわらずヴィルヌーブは無傷だったが、
この事故で観客と警備員の計2名が死亡、計9名の重軽傷者を出した。
この事故は観戦禁止区域への観客の侵入と、警備員によるその排除行動の最中に発生したものであり、一義的には観客のモラルと
サーキットの管理体制に責任を帰すべきものであった。しかしヴィルヌーヴは業務上過失致死罪の容疑で書類送検された。
また、日本におけるF1開催は、このレースを最後に10年間にわたり中断された。
ヴィルヌーヴは日本を含む各国のマスコミから激しい非難に晒されたが、エンツォ・フェラーリは
「死亡事故は今までにもたくさんあった、これがF1レースの世界だ」と擁護している。
1978年
1978年からフェラーリでF1フル参戦を開始した。第4戦アメリカ西GPでは、首位独走中にクレイ・レガツォーニのシャドウに
追突し
大クラッシュを引き起こす原因となり、再び物議を醸した。その後第6戦ベルギーGP
で4位初入賞、第12戦オーストリアGP
で
3位初表彰台を獲得した。第14戦イタリアGP
ではマリオ・アンドレッティ
と首位争いをして2位でゴールするも、
スタート時のフライングのペナルティーとしてフィニッシュタイムに1分加算され7位に終わる
。
地元モントリオールに新設されたイル・ノートルダム・サーキットで開催された最終戦カナダGPでは予選3位から初優勝を果たした。
1979年
1979年はフェラーリの競争力が高まり、ヴィルヌーヴの生涯で最も成績の良いシーズンになった。第3戦南アフリカGP、
第4戦アメリカ西グランプリ、最終戦アメリカGPで3勝を挙げ、タイトル争いに加わった。
最終的にシーズン成績は2位となり、4ポイント差でチームメイトのジョディ・シェクターにチャンピオンを譲ることになるが、
これには「エースドライバーのシェクターに対して、チームオーダーを忠実に守った結果」とも言われている。
第8戦フランスGPでは、
ルノーのルネ・アルヌーとラスト3周に、サイド・バイ・サイドの壮絶な2位争いを繰り広げた。
このデッドヒートは、しばしば「F1の歴史に残る名バトル」の1つに挙げられる。
同じフランス語で会話ができるアルヌーは良き友人となり、ヴィルヌーヴの死後も息子
ジャックのことを何かと気にかけてくれたという。
また、第12戦オランダGPザンドフールトではタイヤ不調に見舞われ、走行中に左リアタイヤの損傷でスピン後に再走した際は
猛スピードでピットを目指した。結局それがマシンにさらなるダメージを与えてしまいリタイアとなったが、
常人では考えられない三輪走行でのカウンターステアなど自車が動くうちは決してレースを諦めまいとする彼のファイトは多くの人々の心を捉えた。
1980年
1980年は一転して苦難の年となる。当時はグラウンド・エフェクト・カー全盛期で、フェラーリの水平対向12気筒エンジンは幅が広い為
ボディ横をウイング形状に成型する際邪魔になるため不利と見られていた。1979年はその欠点がさほど表面化しなかったが、
1980年は他チームのマシンに比べ
ダウンフォースを確保できない状況でシーズンがスタート。
マシン自体もチームメイトのシェクターが「マシンが爆発炎上して粉々になってもドライバーを無傷で守ってくれるほど頑丈なカミオン(大型トラック)」と言い切るほど出来が悪く、ヴィルヌーヴは入賞4回・表彰台なしと低迷する。
しかしそんな中でも予選でしばしば上位に食い込み、第2戦ブラジルグランプリではスタート直後にトップを走行する場面もあった。
チームメイトで前年のチャンピオンのシェクターも5位入賞1回のみで、予選落ちまで喫した。
シェクターはこのシーズン限りで引退し、ヴィルヌーヴはフェラーリのエースドライバーに昇格した。
1981年 (本モデル)
ヴィルヌーヴのチームメイトとして、ディディエ・ピローニが加入した。
フェラーリはターボエンジンに移行するが、新車126CKは旧態依然なシャーシ設計が災いし、ヴィルヌーヴが
「真っ赤なとっても速いキャデラック」、ピローニが「赤いカミオン」と評したほどに挙動が不安定なじゃじゃ馬だったと言われる。
総合性能では他チームのマシンより低い状態だったが、ヴィルヌーヴは時折光る走りを見せた。
第6戦モナコGPでは狭い市街地コースをドリフトしながら、ガードレールとの距離をセンチメートル単位でコントロールする走りで予選2位。
決勝レースでもアラン・ジョーンズを終盤に抜き去り、優勝を飾った。これが本モデルである。
次戦第7戦スペインGPでは後続の4台のマシンを巧みに抑えこみ、
一列縦隊のまま先頭で逃げ切った。
1位ヴィルヌーヴから5位までのゴール時のタイム差は僅か1秒24で、
「ヴィルヌーヴ・トレイン」と形容された。これが最後の勝利となった。
雨の中で行われた第14戦カナダGPではレース途中で破損したフロントウィングがめくれ上がり、視界を遮られた状況での走行となる。
ついにはノーズごとウイングを失ったが、そのまま走行を続けて3位表彰台を獲得した。
1982年、悪夢の事故死
エンツォの肝いりにより、ハーベイ・ポスルスウェイトをデザイナーに迎えて作られた新車126C2は、他チームと遜色のないマシンに仕上がり、
ようやくヴィルヌーヴはチャンピオンを獲りに行ける環境を手に入れた。
序盤3戦はリタイヤ・失格が続いたが、第4戦サンマリノGPは、ヴィルヌーヴがトップ、ピローニが2位と、
2台のフェラーリが他を大きく引き離す状態でレースが進んだ。終盤には「燃費に注意を払い、無用な戦いを避けるように」
との意味でピットから「"SLOW"」のサインが出され、ヴィルヌーヴはリスクを冒さず、ペースを落とした。
しかし2位のピローニはレース終盤にヴィルヌーヴを追い越してしまった。元々このレースは、F1シリーズの統括団体である
国際自動車スポーツ連盟(FISA)と、F1シリーズの興行を取り仕切るF1製造者協会との政治的な対立から多くのチームがボイコットし、
FISAに与するチームの僅か14台しか出走していなかったため、ヴィルヌーヴは当初この追い越しを
「見所の減ったレースで観客を喜ばすための余興」だと考え、トップを奪い返した。
しかしピローニは最終ラップで再度抜き返し、ヴィルヌーヴはペースを上げてピローニを追ったが、結局2位に終わった。
表彰式でシャンパンを手にはしゃぐピローニの後ろで、ヴィルヌーヴは無言を通したが、内心はピローニに対して激しく怒っていたといわれる。
ヴィルヌーヴはこの事件以降ピローニを拒絶し、「もうあいつとは口を利かない、チームメイトとしても扱わない」と発言するなど、
両者の関係は修復不可能なほど悪化してしまう。
続く第5戦ベルギーGP(ゾルダーサーキット)の予選2日目(1982年5月8日)、予選終了10分前ほどにピローニが
自身の予選タイムを0.15秒上回ったのを知ったヴィルヌーヴは、再び予選アタックを行うべくコースに出た。
ピローニのタイムを更新することができないまま周回を続ける中、シケインの後の長い左カーブでスロー走行であった
RAMマーチのヨッヘン・マスに遭遇した。マスはヴィルヌーヴの接近に気付き、レコードラインを譲ろうとした。
しかしヴィルヌーヴもレコードラインの外から抜き去ろうと車線を変更し、結果として両者は同じ方向(アウト側)に動いてしまった。
この時、ヴィルヌーヴ車は時速230km/hに達していたと推定される。
ヴィルヌーヴ車の左フロントタイヤがマス車の右リアタイヤに乗り上げ、回転しながら宙に舞い上がった。
マシンは前部から路面に激突して150m垂直状態のまま横転して大破し、ヴィルヌーヴの身体はシートごとマシンから投げ出され、
コース脇のフェンスに叩きつけられた。現場や病院で救急隊により蘇生処置が施されたが、
ちょうど支柱のあった場所に叩きつけられていたヴィルヌーヴは頸椎その他を骨折しており、その日の夜9時過ぎに死亡した。
32歳であった。この一部始終は蘇生処置まで含めて映像として残っており、1983年の「ウィニング・ラン」、
1987年の「グッバイ・ヒーロー」などの映画で紹介されている。
死後
ケベックで行われた葬儀には多数のF1関係者が参列し、ジョディ・シェクターが弔辞を述べた。
遺体は火葬され、
第2の故郷ベルティエヴィルの墓地に棺の一部が納められた。また、ピローニは遺族から参列を拒否された。
他のF1ドライバーからもジルの死を惜しむ声が多く上がり、アラン・プロストは「ジルは非凡な、かけがえの無いレーサーだった。
彼がいないF1は、もう同じF1じゃない」とコメントしている。